「調理の手間のかからない家庭用ラーメンを作る」というテーマで「あ、それじゃ、お湯をかけて3分で作れるラーメンなんて良いのでは?」とはならない。
「テンプラも乾物もあったのだから、一瞬で思い付いても良いのでは?」とはならない。
チキラー初代は1958年、ふえるわかめちゃん初代は1976年なのだ。
当時の人間は、チキラーも、ふえるわかめちゃんも知らないのだ。
猿にタイプライターを与えて無から『マクベス』を書く確率よりは、猿がリバースエンジニアリングかましてタイプライターを量産する確率の方が遥かに高いのである。
そこらの学生でも、100年前の思想家と同じことくらいは思い付くだろうけど、それは元ネタが100年かけて希釈され広まったが故なのである。
ああ、他人の初見プレイ配信に、数週間遅れでネット配信されるコミックに、ネタバレコメントを打つ糞視聴者、糞読者のいない世界よ。
小学生の私が『冒険者たち』を再読した際の、一読目に遥か及ばぬ感動に絶望したあの日が報われた。
大学生の私が『幻想水滸伝』108人目が致命的バグで仲間にならなかった時に再プレイが嫌になって、2以降にも手を伸ばすことをやめてしまったあの日が報われた。
他人が救われることは、他人が与えられることは、自分がそうされるのと同程度には気分が良いものだな。
そりゃ、自分や別の他人に配分されるはずだった物が奪われてってんなら、不快感と合わせて差し引きマイナスだけどさ。そういうのでなければ。
攻略Wikiの充実した時代しか知らない者は、選択の自由の存在に気付きすらしないという面で、若干不幸だなぁとも思うけど、知識を得るということは万事において不幸なものだからなぁ。
「選択権がある」ことを知らない幸福、という面から見れば、トントンな気もする。
どうだろ。どうだかな。